2006/6/13

 

夢の地 5

 

 

 小さくはぜる暖炉の火が暗闇にうごめく。食後、一日の疲れが出たのか夏野はすぐに寝てしまった。その規則的な寝息を確認して、ユーザはそっと瞳を開いた。ゆっくりと起き上がり壁に背を預けたユーザの視線の先には、冷たい石の床に眠る夏野の後姿があった。ユーザは夏野を凝視した。
 肩まで伸びた黒い髪。袖の詰まった上衣と丈の短い下衣。そこから伸びる細い足。それを見てユーザは思わず目を細めた。夏野の服はヒーズ・ハンデル東部のものとはまったく違う。旅の途中でユーザが見た彼の地方の衣装は、紗の布地を重ねたものや、上着の袖が広がっているものだった。どちらかといえば夏野の服装はヒーズ・ハンデル西部地方に近いように思われる。しかしながら、西部地方の女性が足をここまで出すことは少なかった。もし出しているものがいたとしたら。それは、身を売る商売をしている証だ。それに、彼女の衣装の生地は、西部地方のものとは違うことが遠目からでも見てとれた。
「……」
 何か呟きかけて、ユーザは口を閉じた。彼の胸の奥から夏野の顔を見たいという欲求が沸きあがってくる。顔を見てその後今の自分はどうするだろうか。ユーザは無言のまま考えた。そのまま満足するなんてありえない。彼女を傷つけてでも真実を聞き出すだろう。そうして聞き出したその後は…。
「これ以上はムリか…」
 疲れたように呟いてユーザは瞳を閉じた。久方ぶりの光に、瞳も心もひどく疲れている。とにかく今は様子を見るべきだ。そう考えながら、以前から気になっていた一つの噂を思い出していた。ヒーズ・ハンデル東部の小国にまつわる噂。
 本当にそうなら面白いのに…。
 確信のない考えに思いをはせながら。ユーザの視界に再び暗闇が訪れた。


 朱に染まる夕暮れは好きではない。夕暮れの風情がどことなくさびしくて嫌いだった。同じ朱なら朝焼けのほうが好ましい。いつもそう思っていた。
(昨日は雨だったから今日の空は綺麗だろうな)
 そんな期待を胸に夏野は重い屋上の扉を押し開けた。施錠など一度もされたことのない屋上は、昼休みともなれば善良な学生たちの憩いの場となるのだが、朝連もまだ始まっていないこんな早朝には人っ子一人いない。それを知っているからこそ、夏野はいつもここに来るのだった。
 扉を開けると同時に、少々冷たい空気が夏野の肌をさした。六月半ばといってもまだ早朝。その風を受けるには夏服では辛い。
 両腕で自分の肩を抱くようにしながら、夏野は屋上をフェンスまじかまで進んだ。夏野の背をゆうに越す高さまで伸びるフェンスの間からは、朱色に染まる街が一望できる。学校が街一番の高台に立っているおかげで、屋上からの眺めは絶景だ。大きくも小さくもない自分の街。それが生まれたばかりの光に飲み込まれていくのを、夏野はじっと凝視していた。
「このまま、全て飲み込まれればいいのに」
 我知らず呟いた言葉。それは夏野がいつも思い描いていること。このまま、全てが飲み込まれてなくなれば、自分という極小の存在も消えてしまえるかもしれない。ぐっと、掴んだ手にフェンスが食い込んだ。
「おい」
 突然後方から降って沸いてきた声。驚いて慌てて振り返ると、男子生徒が一人、扉を背にして立っていた。長身のその学生の名前を夏野は知っていた。
「深水君…」
 呟いた夏野の声は少し上ずっていたが、男子生徒はそんなことを気にもしなかった。ただ、黙って夏野を凝視する。
 深水對。
 彼は夏野のクラスメイトだった。無口で人とあまり係わろうとしないくせに、長身で顔のつくりが非常にいいせいで、女生徒にかなり人気がある。一年の夏に突然転校してきたのだが、その時からずっと騒がれていたのでさすがの夏野も知っていた。夏野が実際に係わったのは、今年の春に同じクラスになってから。しかも、クラスの用事で何回か会話をしただけだ。
「なにをしてる」
 硬質な、抑揚の少ない声音で對はつぶやいた。あまりにぶっきらぼうで、夏野がそれを自分への問いだと気がつくのにしばらくの時間が必要だった。
「なにって…」
 何と答えていいのかわからず、夏野は口ごもった。
 もともと、あまり人に見られたくなかった姿だ。先ほどの言葉を聞かれたかもしれないという不安もある。そのうえ、對の探るような視線が夏野を動揺させていた。
「別に何も。景色を見てただけ」
 落ち着け。と、自分に言い聞かせながら。夏野は口の端を少しあげて笑って見せた。友人たちにいつも見せている笑顔だ。
「深水君こそどうしたの。こんなに朝早く」
「用事がある」
「そう」
 こんな早朝からどんな用事があるんだか。自分のことを棚にあげて心の中でつぶやきながら、夏野はなるだけ興味がなさそうに呟いた。
「こんな早朝から景色を?」
 對の質問は多分聞かれるだろうと思っていたこと。だから夏野は笑顔で返した。
「うん、好きなの。ここから見る朝日が」 
「街を飲み込むさまが?」
 瞬時に夏野の笑顔は凍りついた。聞かれていた。
「何のこと?」
 自分でもわかるほどに、夏野の声は震えていた。こんなことなんでもない。言い訳できる。と、頭の中ではわかっているのだが。對の視線に捕らわれて、上手く言葉が出てこない。
「全て飲み込まれればいいのに。と、今言っただろ」
「…ああ、飲み込まれそうなほどキレイって意味…」
 必死に笑い飛ばそうとして夏野はそれに失敗した。
「いつもここに来て、そうやって朝日を見てる」
 いつの間にか、對はすぐ近くまで来ていた。自分より頭一つ高い對を見上げると、鋭い瞳と目があった。
「死にたいのか?」
「…いいえ」
 もう、夏野には馬鹿らしいと逃げることはできなかった。笑うことも、いつものように優等生の仮面をかぶることもできなかった。
「不思議だった。優等生の委員長がこんなとこで何やってるのかが。悲痛そうな顔で何を見てるのか」
 すうっと、對の視線がはずれたので、夏野は小さくため息をついた。金縛りから解き放たれたような気がする。そうすると、もう優等生の仮面を被る必要も無いように思われた。
「自殺しそうにでも見えた?」
「……」
 對は答えなかった。
(いつから見られてたんだろう)
 先ほど對はいつも来ていると言った。確かに夏野は毎朝のようにここへ来ている。けれど、それを誰かに見られたことなどない。
「いつから知ってたの?」
「一月前」
 今度は對も答えた。
「そんな前から…。気づかなかった」
 夏野は苦笑した。そんな前から見られていたのなら、今更何かを隠すのは馬鹿らしいように思えた。 
「ほんとにただ見てただけよ。この街をね」
 夏野は對の視線の先を追って街を見下ろした。すでに上った黄色い太陽が、生まれたばかりの光を惜しみなく降り注いでいる。
「見て、確認するの。自分がこの街からは逃げられないことを」
 夏野が住む町は四方を山で囲まれた盆地にある。小・中・高校が合わせて十五。大学はなく、進学は山を越えた他の都市へ出なければならない。遊ぶ場所は駅前か山向こうの少し大きな街。時間をかければさらに大きな都市へも行けるが、夏野自身はあまりでかけることはなかった。
 それが夏野の世界の全てだった。
「逃げたいのか?」
 抑揚のない對の声。困ったように夏野は首をかしげた。
 逃げたいと。そう口にしたことはない。
 逃げられないと呟いたことは何度もある。
 だからだろうか。いざ、逃げたいのかと問われると、答えることができない。
 返事ができないまま、数分が過ぎた。
 夏野の返事を得られないと判断したのか、對は視線をはずして背中を向けたが、急に足を止めて振り返った。
「来る気があるなら、何も持たないで明日来い」
「えっ?」
 唐突な言葉に、夏野はまったく意味がわからない。
(来る気ってどこに…)
「けして行けない世界へ連れて行ってやる。この場所から逃げる気があるのならな」
 ふっと、口の端を上げて對は笑った。夏野が初めて見た笑いだった。そのあまりの美しさに思わず夏野の視線が釘付けになる。そのまま、對は重い扉を開けて夏野の視界から消えてしまった。
「どういうことよ…」
 呆然と呟いた夏野の言葉は、吹き抜けた風にさらわれて消えていった。

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